口碑によれば、1716年(享保時代)から四代にわたって代々大庄屋として栄えた池の口の大庄屋・中西孫左ヱ門・勝応(かつまさ)氏だったとされ、参宮の時、伊勢から獅子舞の一座を招き、獅子神楽を広めたと伝えられています。
当時の行政単位のひとつである「古座組」の政治・地域性等を考えると、古座・高池下部・高池上部・古田・西向の各獅子舞は一様に「古座獅子」だということができます。
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また、古座地区の言い伝えによれば、「(当時の人は)木で出来た獅子頭をかぶることを嫌がったが、一番最初に獅子舞を習ったのは古座の人と言われています。
古座獅子は、那智勝浦町をはじめ、串本・大島・周参見・白浜・中辺路・大塔・芳養に至る地域の獅子舞の元祖であるということが各地に伝承されています。
例を挙げると、上富田町・岡の獅子舞の由来に関しては「古座流又は遠藤流であって、聖武天皇(724〜749年)の頃、朝臣・遠藤氏が熊野古道の荘にこの獅子舞を伝え、その後、村上五之(ごのう)という中湊の人が古座流となして後、田の井(旧日置川町)の甚平、甚五郎がこの古座流を伝えた。
元治元年(1864年)に岡の人が甚五郎を連れ帰り青年達に伝達した。」と伝承されています。
また、浜の宮の獅子舞は権九郎獅子と呼ばれ、江戸時代の古座にあった権九郎獅子という獅子の流儀が伝わったと伝承されています。
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古座区の古座獅子は格式があり、きめの細かい静なる所作の「しな獅子」、荒々しく激しく動なる獅子頭使いの「あら獅子」が洗練された技と共に代々継承されていて、現在は国の重要無形民族文化財という名誉ある文化財に指定されている。
古座獅子は、河内祭の座の主役として地域の人々に娯楽芸能を披露するかたわら、木彫りの獅子は霊獣に変化し、豊漁・五穀豊穣を祈念し、また広小路での辻では「辻がため」、新築の家では「家がため」と称して無病息災を祈念し悪霊をはらいます。
また獅子カバチ(獅子頭のこと)にも神力があるとされ、孫を抱いたおいさんから「この子の頭を(獅子頭で)噛んだってくれんし」とよく頼まれます。
霊獣の獅子が子供の頭を噛むことによって悪魔・病魔を退散させ、子どもは健康に育つのです。
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古座獅子には13曲の舞が伝承されています。代表的な舞には、御幣と鈴を割り振って四隅(東西南北)を静める最も大切な舞である「幣の舞」、扇を優雅に操る「神明讃(しんめいさん)」、剣を抜いて悪霊を断ち切る「剣の舞」、牡丹の花に戯れる「花がかり」、幼女が扮する天狗と獅子との駆け引きがすばらしい「ささら天狗」などがあります。
なお、古座の獅子舞が古座神社、九龍島神社、樫野の網代などに奉納するときは必ず「弊の舞」、「剣の舞」、「乱獅子」の3曲を奉納しますが、河内祭の当日、古田の浜に上がって河内様に獅子舞を奉納するときは「弊の舞」、「乱獅子」の2曲だけを舞い、決して「剣の舞」は奉納しません。
互盟社、古田の獅子舞も同様です。「河内様は剣がきらい」だと、代々口伝えで伝えられてきました。 古座は古座青年会、高池下部は互盟社と言うように、獅子舞は地域の青年の組織によって保存、伝承されています。
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祭りを通じて地域の若い衆が集まり、地域のしきたりや政治問題、女性との付き合い方などを教えてもらい、同じ釜の飯を食べる事によって地域での独立した組織の一員だという自覚を深めます。司馬遼太郎が描き、探していた「若衆宿」なる青年の繋がりはどのようなものだったのか分からないが、NHKが制作し全国放送された「司馬遼太郎の古座街道」では、古座青年会が「若衆宿」的な感じで取り上げられました。
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河内祭の起源については、千年以上も前から浮き島をご神体とし、水神を崇める素朴ば祭祀から始まったのではないかと考えられます。熊野地方にみられる自然崇拝祭祀です。
御船は舟謡を謡いながら河内様を3周し、河内大明神と一体化します。獅子舞伝馬も同じく「道中」、「上り太鼓」と曲を進めて河内様を3周するとき、河内様だけに奉じる「志っくい」(しっくい・祝共位)の曲を奏でながらゆっくりと巡ります。深淵の静かなたたずまい、ゆらぐ水面を「志っくい」の静かな音色は爽やか風となって吹き抜けます。
古座獅子には、獅子舞の技だけではなく、古座川と共に暮らしてきた人々の息吹が伝承されている。
古座獅子考 上 野 一 夫 著
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