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河内祭(こうちまつり)とは… |
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古座川町流域の5地区(古座、古田、高池、宇津木、月の瀬)が担い手となって行われてきた伝統祭礼。
紀州藩が編纂した「紀伊続風土記」に「日置浦より新宮迄の間に此祭に次ぐ祭なし」と書かれるほど古くから有名な祭りであった。
河口に位置する古座の中心産業は漁業、その他の地区は主に山林業を基軸に長年コミュニティーを形成してきた。
このように性格を異にする地域が年に一度、共に河内神社(河内様)に集い、それぞれ独自のやり方で祭礼を行うという、他にあまり例をみない形式の祭りである。 |
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祭りのハイライトは、江戸時代に沿岸捕鯨で栄えた古座の鯨舟に華麗な装飾を施し、軍艦に見立てた三隻の御舟(みふね)の水上渡御
河内神社のご祭神は河口の古座神社に合祀されているのだが、この例大祭では、元々鎮座されていた約3km上流の「河内様(コオッタマ)」と呼ばれ、ご神体とされる川の中の小島まで「河内大明神」に神額を揚げた御船が遡り、そこが主祭場となる。
そして熊野地方の獅子舞のルーツといわれる古座流の獅子舞の競演や、櫂伝馬競争など見どころが多い。
御舟行事と古座青年会の古座獅子は文化庁の重要無形民族文化財に指定されている。 |
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河内様とは… |
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河内神社のご神体は「河内様(地元発音ではコオッタマ)」と呼ばれる花崗岩質の小島。
拝殿を持たない自然崇拝の名残をとどめる原始的形態の神社である。
中央の森の中に聖なる石があり、御舟や当舟、獅子伝馬など祭りの主役となる舟が河内様に着くと、まず代表者が上陸し、神聖な海水とお神酒をふりかけ、拝礼する。
ご祭神はスサノオノミコトとなっているが、スサノオと習合する渡来神である牛頭(ごず)天王とされたこともあり、疫病祓いである祇園会との関係を指摘する専門家もいる。
祭礼が行われる河原の石にも霊力が宿るとされ、戦争中は出征兵士が河内様の河原の石をお守りとして持参して戦地に赴くことが広く行われたという。
いずれにせよ、河内様は、山の民と海の民の信仰を集める「河内大明神」として理解するのがよさそうだ。 |
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ショウロウとは… |
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祭りで「生き神様」的役目を担うのが「ショウロウ」で、古座区の小学生児童から、女子(1名)、男子(2名)が選ばれる。
ショウロウは、古座神社に宮入後は神社に寝泊りし、役目が終わるまで、けがれを嫌って地面を踏むことも許されないのが原則(数年前から神社に寝泊りすることはなくなった)。
祭り当日、お稚児さん姿のショウロウは、神官とともに御座舟である「当舟(とうふね)」に乗込み、神事の間は河原にしつらえたショウロウ座に座り拝礼を受ける。
ショウロウ座は、河内様ではなく、海上の九龍島の方向を向いていることから、その解釈をめぐってさまざま説がある。
一方、高池下部では「オヒサシガンド」と呼ぶ、老婦人1名、男女1名ずつの児童2名が毎年選ばれる。
こちらは、ワラジを履く以外は特別な衣装も無く、神事の間は河内様の方を向いて座る。拝礼を受けることもない。 |
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神聖さを守るために… |
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御舟、「河内大明神」の神額、ショウロウは、とりわけ神霊が宿る聖なる存在とされているために、けがれを避けるための苦労は並大抵ではない。
神額とショウロウは、舟渡御の際に人間が通行する橋の下をくぐってはいけないとされ、神額は橋の手前でいちいち外され、ショウロウは背負われて橋を迂回する。
御舟が橋の下を通過する際は、警官が出て橋の上の通行止めにする。ショウロウが神社から出て当舟に乗込む際も地面を直接踏むことが許されないので、背負われて移動する。 |
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夜籠り・神迎えの神事 |
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宵宮の日没後、河内様では御舟の夜籠り神事が始まる。
提灯に明かりを灯した御舟が一隻ずつ右回りに河内様をきわめてゆっくりと三周する。この間、舟謡が謡われるが、曲は舟によって異なる。
これは神霊を迎える儀式で、漆黒の闇の中、神霊と御舟が一体となる神秘的な行事である。三周目には舟が重たくなったような感じがするという不思議な話も伝えられている。
河原では古田の獅子舞を演じられ、下流では互盟社の獅子伝馬が川面を流しながら花火を打ち上げる。
暗闇の中、舟謡が厳かに響き、提灯の明かりが川面に映って美しい。幻想的なこの夜籠り神事は、ぜひ体験したい行事である。 |
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御舟と舟謡 |
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河内様の神が宿る「河内大明神」という神額を運ぶ大切な役目を担い、絢爛たる装いと格調高い舟謡で、この祭りのスター的存在と言えるのが三隻の御舟である。
スギ造りの舟は全長約11m、舟幅約2m。元は古式捕鯨の鯨舟なのだか、浅瀬の多い川を遡れるよう、船底を浅くしている。
華麗な王朝絵巻が染めぬかれた、まん幕は京都に特注したもの。御舟は上(かみ)、中(なか)、下(しも)の三隻で、それぞれ古座区の上之町、中乃町、下乃町に対応している。
舳先に描かれた花柄は舟によって違い、江戸時代の古座鯨方の鯨舟のしるしである卍の紋章が付けられている。
舳先には「へのり」と呼ばれる白装束の舵取りが乗り、船内には、左右の艪(ろ)のこぎ手と舟謡を謡う「師匠」が乗込んでいる。
御舟を担当するのは古座の「勇進会」という主に漁師方からなる組織で、舟謡は「河内会」という組織が担っている。
なお、御舟は女人禁制が厳しく、舟に触れることも禁じられている。
御舟が渡御するときに船内で謡われるものが御舟謡。
紀州藩の舟謡と共通するものが多いともいわれ、今は謡われないものも含め、「出し」、「入舟端唄」、「皇帝」、「大山口説(おやまくどき)」、「八島」、「吾妻」、「御曹子」、「花揃え」、「お伊勢参宮」、「仏揃え」の十曲が伝わっている。宵宮の夜籠りが舟謡をじっくり聞けるチャンスである。 |
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古座流の獅子舞 |
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互盟社の獅子舞 |
河内祭を構成する5地区のうち、古座の古座青年会、高池下部の互盟社、古田の古田獅子保存会の3地区の組織が、祭りのあいだ、それぞれの流儀の獅子舞を演じてまわる。
これらの獅子舞は古座流の獅子舞として知られ、熊野地方には、古座流を任じる獅子舞がひろく分布している。
古座青年会と互盟社は獅子屋台を乗せる獅子伝馬を持ち、祭り当日には、花火を船上から打ち上げながら河内様まで古座川を遡上する。
ご祭礼終了後、河原に獅子屋台が上陸し、祝詞座前での奉納演技のあと、各地区に直会座テントで、ひととおりの演目が披露される。
獅子舞をもたない宇津木と月の瀬の直会座には互盟社の獅子屋台が巡回する。
本祭りの翌日には「裏祭」と称して、各地区内の辻や広場、新築の家などで獅子舞が演じられる。 |
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古田の獅子舞 |
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櫂伝馬 |
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3隻ある櫂伝馬も御舟と同じように、古座の3地区に分かれて所属する。
上乃丁は黄、中乃丁は青、下乃丁は赤と色分けされている。競漕は宵宮と本祭の2回行われ、宵宮のレースが正式で、本祭のレースはアトラクション的なもの。
串本町大島の水門(みなと)祭および新宮市の熊野速玉大社の御舟祭でも、伝馬の早漕ぎ競漕が行われるが、河内祭の場合は漕ぎ手が小中学生という特徴がある。
かつては大人が乗る大伝馬もあった。今は、過疎化と少子化で乗員確保が問題になっている。 |
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河内様は女の祭り |
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ショウロウや獅子舞の天狗約など特別な例を除いて、河内祭の担い手はほとんど男である。
女性は、ただ屋形舟のお客さんとして、のんびり祭りを楽しんでおればよい結構な身分というわけで「河内様は女の祭り」といわれている。
ちなみに、河内様のすぐ手前に六蛇(ろくじょう)の瀬という難所があり、男衆が屋形舟が上るのを手伝おうと待ち構えている。
ここが男女の出会いの場となることがよくあったという。 |
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祓い川 |
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古座川は古くは「祓川(はらいがわ)」と呼ばれていたという。
月の瀬地区の古座川右岸に「祓の宮」という、河内神社のように社殿のない古い形式の神社があり、ここは弘法大師を開基とする霊山、重畳山(かさねやま)へ入る修験の道の入り口にもあたる。
古くは三宝院門跡や聖護院門跡が大峰入りの際、ここに参拝してお祓いをする習慣があったといわれている。
古座川は聖地熊野の中心部へ分け入る前の禊の場として、特別な意味があったのだろうか。 |
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河内祭の楽しみ |
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○快適な屋形船
河内祭の楽しみのひとつに「屋形舟での祭り見物」がある。
古座川流域では、昔は川舟が主要な交通手段だったこともあって、自前の舟または、チャーターした屋形舟に親類縁者が乗り込んでの祭見物が楽しみのひとつだった。
道路が整備され、車が普及するにつれて屋形船の数はすっかり減ってしまったが、炎天下暑い河原にいる人々を尻目に、水上で涼しく飲食するぜいたくは、今後大いに見直されてもよいものである。
見知らぬ者同士の水掛け合戦も河内祭りの名物。
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○カシワズシ
河内祭特有の料理がある。本祭で高池下部の直会の座でふるまわれる郷土料理がカシワズシ、カワエビ、ソラマメ、ナマス、トビウオの塩焼きなどだか、中でもどこの地区でもつくるのがカシワズシ。
五目寿司に似たご飯(当地でオマゼと呼ぶ)のお握りをアカメガシワの葉に包んだもの。これが大変おいしい。
柿の葉寿司や目張り寿司と違い、そのまま携帯できるし、見た目もよい。アカメガシワの葉には防腐効果に加え、ご飯がくっつかない、香りがよいというすぐれた特徴があり、今後全国的にブレークするかも? |
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